私は小学校の頃、家族で北海道へ旅行に行った。景色が最高の観光地の駐車場で、ふと足元を見ると、ゴミだらけだった。本末転倒である事実に、悲しい気持ちになり、どこに問題があるか分からないながら何とかしなければという強い使命感を覚えた。
大学では水処理や下水道について学び、社会人としても水処理関連の仕事に就いた。
海外で排水をきれいにした方がより地球環境に貢献できるのではないかとも考えた。
いくら技術や営業力を高めても、結局は貢献度合いには限度があることに気付いた。
地球環境の変化の大きな原因が人間活動にある以上、出来る限り人間活動に訴えることがとても重要だと考えるようになった。これが大きな会社設立のきっかけだ。
近年は環境分野のビジネスには大きな追い風が吹いているようにも思う。ある意味チャンスとも言えるかもしれない。
特にSDGs「持続可能な開発目標」が社会的に叫ばれるようになったことも要因の一つである。
「持続可能」の表現には、資源や生命には限りがあり、地球の命にも限りがあることを前提に、未来を考える第一歩として、環境問題にも取り組んで行くのだという気概を、私は感じるので良い表現だと思う。
そもそも地球環境に急激な変化をもたらした人間にとって、それでも尚、開発しようとしていること自体がおこがましいと私は思ってしまう。これ以上快適で便利な生活や社会を求めるべきではないのではないか、とまで感じている。
しかしながら、人間社会の大部分は経済で成り立っている。環境負荷低減にお金を費やすことは経済論理とは多くの場合真逆だ。多くの会社にとっては環境負荷低減にそれなりの費用しか出費できず、出来るだけ排出するものにはお金を掛けたくないとお感じになるのは、正直なところだと思われる。
理由としては、お金を掛けても、法律遵守か良くてもコマーシャル程度にしかならないからだ。
一方、地球上のすべての原料が元をたどれば、地球環境由来である。石油資源、鉱物、食料、衣類、建物、水、空気、熱等々すべてだ。長い目で見るとこれらの原料のバランスが崩れ、いずれ無くなる。
生命もいずれ死ぬ。人間も長くても100年程度で死ぬ。
地球の歴史から見れば一瞬だ。多くの人にとっては今が良ければそれで良いと思ってしまうことが本音だと思うし、仕方のない部分でもあると思う。
「持続可能」はこのバランスの崩壊を少しでも食い止める為に重要な考え方だと思う。
環境はとても大まかに言うと「質量保存の法則」と「生態系」で成り立っていると思う。
地球上の物質には「モノ」と「生命」しか存在しない。
モノはどれだけ複雑になっても質量保存の法則が成り立つと思う。生命は必ず生態系のバランスの中に存在していると思う。
地球の生態系のバランスは人間により変わっていることは間違いない。そのバランスを維持し、地球や生命の寿命を少しでも延ばしたいと願ってやまない。
そしてより沢山の方々にバランスの取れた、ほどほどの生活スタイルや生産活動がどの辺りにあるのかを一緒に考えて頂けると非常に嬉しく思う。